西島篤師副会長兼事務総長がご逝去されました。
平成26年10月23日(木)、当協会の西島篤師 副会長兼事務総長(享年63歳)が中咽頭がんのため、静岡県内の病院でご逝去されました。通夜は10月26日(日)に豊橋市内の普仙寺、葬儀は同寺にて10月27日(月)午前10時より親族のみにて行われ、続いて同日午前12時よりロワジールホテル豊橋にて告別式・社葬が行われ、約1,000人が参列されました。心からご冥福をお祈りいたします。
西島副会長兼事務総長は、工作機械メーカー・西島株式会社の経営トップとして社業発展に力を注ぐ一方、日独交流を筆頭に、東日本大震災の被災地支援など多方面にわたり幅広くご活躍されました。当協会副会長兼事務総長として長年にわたり多くの皆さまより賜りましたご厚情に対し、この場を借りまして厚く御礼申し上げます。西島副会長兼事務総長のご逝去は、当協会にとって大変な痛手ですが、さらなる日独交流の発展に向け、会員一丸となって活動を継続してまいる所存です。関係各位におかれましては、これまで同様、ご指導、ご鞭撻を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
【西島篤師君を偲ぶ】 (神野信郎会長 追悼文)
病魔と闘いながら夢の実現に向かって闘い続け、最後まで温かい愛情と強い信念で生命を爆発させ続け、生涯を全うした君の人生と人生観に深い感動と尊敬の誠を捧げます。
私より20歳以上若い君の一生でしたが、私にとっては人生の在り方を教えていただきました。どんなに困難であっても天から与えられた人生は、死の時まで歯をくいしばって生き生きと生き抜き、天命を全うすることこそ人の生きる道だと身を以って示されました。
眠るように温和なご遺体を前に、奥様から亡くなる5日前の10月17日、18日、奥様ら4人で第43次東北交流支援を敢行され、各学校を回り激励されたとお聞きし、驚愕しました。その直前、10月16日に私にメールが届き、『去る、9月26日(金曜日)に第42次東北交流支援として豊橋から4人が参加して宮城県へ行ってきました。6月は落語のイベント、7月はクラシックコンサート、8月は100人のスタッフがボランテイアでミュージカルやライブコンサートを被災地で実施。9月からは、学校回りを企画し、今回は2保育所、2小学校、1中学校、2高校、1大学を訪問。全校に、豊橋名産の栄養満点の「寒天ゼリー」、チョコレート菓子「ブラックサンダー」、玉川うどんの「冷や麦セット」をお届けしました。また、国内から1ヶ所、ドイツから3ヶ所、義援金が私のところに送られ、被災校に直接お渡ししました。「子供達のために使わせていただきます」と大変感謝されました。また、「津波で校舎が破壊され海から離れた小学校の校庭に仮設校舎を建て授業を再開して3年が過ぎましたが、未だに自宅及び仮設住宅からスクールバス、路線バス、保護者の送迎、自転車通学と様々な手段で登校しています。」と現実の話を聞き、早く未来ある子どもたちに「普通」の教育環境で可能性を育んでもらいたいものです。次回東北交流支援は、第43次として10月17日、18日に実施します。』とあり、私からも『ご苦労さま。元気で活躍、感動しています。しかし無理せず、健康第一、自愛自重。ゆったり、のんびり充電第一ですぞ。』とメールを返答したばかりでした。死を覚悟で訪問された君の死生観には、ただただ頭が下がるばかりです。
また、10月2日には、君のドイツの家族同然の親友、独日協会ブラウンシュバイグ・パイネ・ヴォルフスブルグ地域のバローグ=クラウス輝子会長ご夫妻が新婚旅行で豊橋を訪問され、ホテルアークリッシュ豊橋で佐原市長共々、歓迎祝賀会を開いた時は、君は元気をふりしぼって出席され、ドイツと豊橋の人脈の歴史をしみじみと話し、ご夫妻を祝福され、私は永遠に忘れぬ感動を受けました。
西嶋篤師君との出会いは、昭和53年、君がカールスルーエ工科大学の学生の時でした。青木茂市長を団長とし、私が副団長で「自立した地方都市をドイツに学ぼう」とアムステルダムからアルプス越えでイタリアのミラノまで、豊橋市と豊橋商工会議所で結成した「ヨーロッパ縦断の旅」で、篤師君は通訳兼案内役として参加していただいたのが最初でした。
西島家とは、神野家が戦後、神野新田町イの割の別宅に疎開し、近くに住む篤師君の父上、正雄さんが毎日のように私の父 太郎のレコードを聞きに来ては涙を流して話し込んでいた頃からのお付き合いです。私の中学時代、私の指南役をかって出て、人生勉強の兄貴分でいらした。東京から帰って来てからも豊橋JCの先輩として、会議所の同僚として、正雄さんとは亡くなるまで深い交友が続きました。
篤師君は、平成2年豊橋JC第39代理事長に就任し、「未来への道標」、「宇宙への冒険。コロンブス号」、「我らゆうゆう人、皆そろってゆうゆう人」と地球への挑戦をテーマに、日本青年会議所第39回全国大会を豊橋で開催、全国から2万人のJCが終結し、篤師君の強いリーダーシップは全国に響き渡りました。
また、豊橋技術科学大学、サイエンス・クリエイト設立をきっかけに、「国際的に評価される質の高い技術を学習しよう」と、豊橋商工会議所内に有志と共に「ものづくり委員会」を設立、中堅ベンチャー企業のリーダー的役割を果たしました。
西島株式会社の「定年制のない企業」は全国の未来企業のモデルとなり、NHKに出演したり、慶應義塾大学の清家篤塾長のゼミナールの教材となり、塾長も大勢の学生を連れて定期的に訪問され、友好を深められていました。
豊橋日独協会は、ベンツのヘアツーク重役、フォルクスワーゲンのハーン社長の強い要請で、平成3年4月に設立されました。父 正雄さんの後を継ぎ、会長の私を助け、副会長・事務総長として、バローグ=クラウス輝子さんをはじめ、ドイツ全土の独日協会幹部との豊かな人脈を活かし、豊橋とドイツを結ぶかけ橋の中心的役割を果たしました。“会員300人全員が主役”をモットーに、8つの委員会に女性やJC・OBの若手を活用し、会員から絶大な信頼を得て、毎月のシュタムティッシュで市民運動に拡大し、豊橋日独協会は全国55の日独協会のお手本と評価されるなど、日本はもとよりドイツでも「豊橋は日独のかけ橋」と言われるほどに当協会を成長させてくれました。
ドイツの要人が来豊された際は、必ず西島株式会社を訪問され、最近ではニーダーザクセン州首相ヴルフ氏(後にドイツ大統領)が西島君手作りのカレーライスを私と一緒に楽しんだことなどは良い思い出です。
仕事以外でも数え切れないボランティアのリーダーでした。豊橋市が恒例事業として実施している「豊橋青少年オーケストラキャンプ」も、ブランデンブルグ国立管弦楽団フランクフルト客演指揮者の浮ヶ谷孝夫氏との交友から始まりました。毎年のように豊橋出身の杉本暁史さんらのウルム・アンサンブルグループを招待したりして、ドイツと豊橋の親交に努めました。
スポーツにも力を注ぎ、豊橋相撲協会副会長(実質的には会長)として、(元武雄山)山分親方後援会副会長、父 正雄さんから引き継いだ年1回の県内外の小中学生を集めた「西島杯・子供相撲大会」は今年で23回を迎え、地道な社会貢献は西嶋家の伝統です。
篤師君の正義感に満ち、国際性豊かな豊橋の若きリーダーを失い、堪え難い大きな悲しみでいっぱいです。篤師君はグローバルが進む豊橋の未来を先導する象徴的な存在でした。篤師君の国政的、豊かな高い志と、社会貢献に挑戦する行動は、若いJC諸君、若い経営者に継承されると確信しています。
ご子息を中心に、西島株式会社の一層の飛躍発展を祈念して、惜別の辞といたします。
平成26年10月27日
豊橋日独協会
会長 神野 信郎